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COMMONS CAFE

Date:2017.04.26

[第23回]同志社大学 文学部教授 植木朝子「日本の古典に親しむ―平安時代の流行歌謡―」

第23回コモンズカフェ開催記録

<はじめに>

 今回のコモンズカフェでは文学部の植木朝子先生をお招きしました。先生のご専門は今様とその周辺歌謡です。

植木先生01 歌謡好きだった後白河院が、歌謡の面白さを後世に伝えるために編集した歌謡集『梁塵秘抄』に関する先生の著書は、ビギナーズ向けに現代語訳して解説を加えた『梁塵秘抄(ビギナーズ・クラシックス 日本の古典)』(角川学芸出版、2009年)をはじめ、笠間書院コレクション日本歌人選、ちくま学芸文庫などでも出版されています。

 本日は、この『梁塵秘抄』を中心に、平安時代の流行歌謡についてお話を伺いました。

<平安時代の流行歌謡、今様>

 まず、私たちにあまりなじみのない「今様」の解説をしてくださいました。

 今様とは、平安時代末、京都で流行したはやり歌(広く歌われたのは250年ほど)のことです。鎌倉時代以後、宮廷行事の淵酔という酒宴の中で歌われた曲が一部残るだけとなり、江戸時代にはほとんど忘れ去られたといいます。

 「今様」は、もともと、現代的だ、当世風だ、目新しいといった意味の普通語ですが、当時流行した歌が「今めかしさ」を持つために名づけられたそうです。歌謡名に「今様」を用いた早い例には『紫式部日記』や『枕草子』があります。江戸時代に今様が衰退した原因は、やはり流行歌謡の宿命でしょう。流行り歌というのはその時代を反映しており、言い換えると時代に影響されるものなので、リバイバルはあっても長く生命をもつというのは難しいとのことです。植木先生曰く、先生の青春時代はバブル期で肩パットとウエストを強調するスタイルが流行っていた、だが今の時代はそういうファッションはもう見なくなったではないか、とファッションの流行に例えて分かりやすく説明してくださいました。

<今様を愛した帝王と、『梁塵秘抄』>

 この今様を、こよなく愛した人がいました。後白河天皇(1129~92、1155~58在位)という人です。後白河天皇の時代が、今様の歴史としては爛熟期だったといえます。後白河天皇は、何とか今様を後世に残したい!と思い、『梁塵秘抄』という本を作り、1169年(嘉応元年)にはほぼ完成したといいます。

 歌詞を集めたもの(『梁塵秘抄』)が10巻、今様の歴史、口伝などを記した『梁塵秘抄口伝集』が10巻で、もともとは20巻あったようですが、現在残っているのはごく一部です。

 その現存しているものが発見された明治の末は、北原白秋、佐藤春夫、芥川龍之介などの近代作家たちが、『梁塵秘抄』の歌を自身の詩や歌の中に取り込んだりと、ちょっとした今様ブームが起こったりしたそうです。

 『梁塵秘抄』が完成した5年ほど後の承安4年(1174)に、後白河天皇は「今様合(いまようあわせ)」という行事を行いました。今様合は、公卿殿上人30人を左右に分け、9月1日~15日までの十五夜にわたって、技の優劣を競わせ、勝負をさせる行事です。この勝負を判定する役のことを判者というのですが、藤原師長という人物が、後白河天皇に今様を教えてもらい、判者をつとめたそうです。

 算差(かずさし)という役の人もいたのですが、算差は、左右の勝った回数を数える役という意味です。ただ数えるだけではなく、判者と相談し、誰が上手いか評価をする実力者でした。算差は源資賢という人がつとめたのですが、源資賢は、後白河天皇に今様を教えた初期の先生でもあります。すなわち、算差は後白河天皇の先生で、判者は後白河天皇の弟子という関係性だったということですね。

 この時に源資賢の歌った今様が、『吉野吉水院楽書』に残っています。

聞くに心の澄むものは 荻の葉そよぐ秋の暮れ 夜深き笛の音箏の琴 久しき宿吹く松風

 今様は、このように七音と五音を4回繰り返す形式が一般的だといわれていますが、もちろんそうではないものもたくさんあります。この歌は、「久しき宿吹く松風」の部分はもともと「荒れたる宿吹く松風」であったのを歌い替えたものです。

 もとの歌は、荒れた宿に、寂しげな風が吹くという暗くて物寂しい雰囲気を漂わせる歌なのですが、今様合の場である後白河院の御所・法住寺殿に対する祝意を込めて、「荒れたる」を長く続いて行くという意味である「久しき」に替えたのです。

 現代でも、例えばカラオケに行ってその場の雰囲気や状況に合わせて歌詞を替えて歌うことがありますが、皆が本来の曲を知っていて、状況に応じて歌い替えたということを知ることでその替え歌の面白さが共有され、評価されるわけです。

 このように、折に合わせて歌い替えることが、今様の歌い手に求められる重要な力でした。声の美しさや歌唱の技術といった音楽的才能とともに、折にふさわしい今様を選び、また巧みに言葉を歌い替えるという文学的力も強く求められました。

<水辺の遊女と陸地の傀儡>

 今様は誰でも歌うことが出来ましたが、遊女、傀儡(くぐつ)、白拍子のような今様の担い手がいました。いわゆる今様の専門歌手のような人たちです。

 遊女とは、広い意味では傀儡や白拍子を含んで、広く歌舞を行う女性芸能者を指します。狭い意味では、水上交通の要路に住み、小舟に乗って旅客のいる船に近づいて遊芸に興じた人たちでした。

遊女の好むもの 雑芸 鼓 小端舟 簦翳 艫取女 男の愛祈る百大夫

(三八〇)

 『梁塵秘抄』には上記のような遊女にまつわる歌が載っています。この歌の「遊女」は「あそび」と読むそうです。この歌にちなんで、平安末期の遊女の姿をよく表している「法然上人絵伝」という絵巻物を植木先生から用意していただき、学生一人一人に見せてくださりながら説明をしてくださいました。

 傀儡は、陸路の要衝を本拠としつつ漂泊流浪した芸能者です。男は狩猟を主な生業とするのですが、曲芸や幻術を行い、木偶を舞わせるなどの芸を見せることもありました。女は美しく装って、歌舞を行い、旅人と枕席を共にすることも多かったそうです。

 一般に、水辺の遊女と陸地の傀儡といわれ、傀儡は男女の集団で行動するので、女性だけで行動する遊女とは少し違いがあります。

 後白河院がめぐり合った今様の生涯の師は青墓という現在の岐阜県大垣市の傀儡である乙前という人でした。その前の先生が、先ほど述べた源資賢という人です。ちなみに、NHKの大河ドラマ「平清盛」では乙前役を松田聖子が演じたのですが、実際に乙前が後白河院の今様の先生をしていたときは大分年老いていたそうで、ドラマとは少し違うらしいですね。

植木先生02

 一方、遊女や傀儡よりやや遅れて登場した芸能者が、白拍子という人たちです。白拍子は、男子の用いる狩衣の一種である水干を着て、立烏帽子(元服した男子がかぶる被り物の一種。烏帽子本来の形で本体を直立させている)をかぶり、鞘巻(鍔のない短刀)を帯びた男装の女芸能者たちです。白拍子は舞を中心とした芸を行います。足拍子を踏みならしながら旋回するところに特徴があり、今様や朗詠を歌ったことも知られています。遊女や傀儡の歌を中心とした芸に飽き足らなくなった人々の要望に応え、舞を披露する白拍子たちが出てきたのです。

 このように、女性たちによって歌われるというのが今様の特徴です。細い高音と装飾音の女声の美しさに魅了され、男性である後白河院も、細くて清らかな声を出したいと思っていたそうです。

<『梁塵秘抄』における今様>

 最後に、『梁塵秘抄』に載っている今様を三つ紹介してくださいました。有名なものの一つとして、次のような今様があります。

仏は常にいませども うつつならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ

(二六・法文歌・仏歌)

 仏さまは常にいらっしゃるけれども、現実にはっきり見えないというのがしみじみ尊いことであるなあ、人の音のしない明け方に、ほのかに夢にお見えになる、という意味です。人々の仏に対する信仰を優艶に歌っています。文学者には結構人気があって、三島由紀夫などはこの歌を自身の作品に使っており、菊池寛(文藝春秋社を創設し、芥川賞・直木賞を制定した人物です)は色紙にこの歌をよく書いていたといわれています。川端康成は菊池寛に触発されて自身の作品の中に引用していたそうですが、川端の場合は、この「仏」を信仰対象の仏ではなく、生き別れになっている母親や父親など、会えない肉親に対してこの歌を引用しているのが特徴です。

 次は、おそらく最も有名だといわれている歌です。「平清盛」でもテーマソングに使われました。

遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ

(三五九・四句神歌・雑)

 この歌は、斎藤茂吉の「海濱守命」や北原白秋の「臨海秋景・漁村晩秋」、古泉千樫の「稗の穂」など、作家・歌人に多くの影響を与えました。

 通説は、子どもの無邪気な遊び声を聞くと、その楽しげな様子に自分の体まで自然と動き出してくるという大人(老境にさしかかった大人)の気持ちを歌ったといわれています。しかし、歌の主体とその心境について、研究者により様々な解釈がされています。例えば、わが身を否定しながら、子どもの歌声には思わず引き寄せられ、自分の生業に執着せずにはいられない、遊女の嘆きを歌う(馬場光子)という解釈や、遊ぶ子どもの声を聞くと、わが身までが歌をうたうという行為にそそのかされる(西郷信綱)という解釈、また、罪深い生活を送っている遊女が、純真な子どもの声に、身の揺るぐような悔恨を歌ったもの(小西甚一)という説は波紋を呼びました。その他に、罪の意識を持つ遊女が、子どもの無邪気な遊び声にひとときの安らぎを覚えることを歌う(「揺るぐ」ではなく「緩るく」と解する)(藤原正義)と解釈した人もいます。

 このように、歌というのは単純なように見えますが、中身をどう捉えるかとなると、色々と考え様があるものです。

 文学作品を趣味として読むなら、自由に、好きなように読んでも良いですが、研究をするとなると、自分の意見をどれだけ説得的に説明できるかが肝心となるということを強調されました。

 最後に、とてもロマンティックで想像力を引き立てる歌を紹介してくださいました。

君が愛せし綾藺笠 落ちにけり落ちにけり 賀茂川に川中に それを求むと尋ぬとせしほどに 明けにけり明けにけり さらさらさやけの秋の夜は

(三四三・四句神歌・雑)

 一般的に訳そうとすると、この歌は「君のお気に入りの綾藺笠(武士が狩や流鏑馬の折に使う、藺草を編んで作った笠)が賀茂川に落ちてしまった、それを探そうとしているうちに夜が明けてしまった、この清々しい秋の夜は」と訳することができます。しかし、主語が誰なのか、誰の綾藺笠なのか、などを考えると、多様な解釈ができるのです。

植木先生03

 例えば、既存の解釈には、武士の従者が忠誠心から、徹夜で真剣に主君の笠を探したのだ(塚本邦雄)とする説や、笠を探すのは若い男女のデートの口実であって、月明かりの河原を(あるいは舟上にいて)二人で語り合いながら明かしたロマンティックな一夜を歌ったもの(武石彰夫)とする説もあります。そして、恋人の笠を保持することによってもう一度その持ち主に会えると信じた女が、一人で懸命にその笠を探し求めた(馬場光子)とする説、笠を探していたので、心ならずも女を訪ねられなかったという男の弁解の歌(浅野建二)という説もあり、男の言い訳を繰り返して、女が男をからかっていると解する説(吾郷寅之進)もあるらしいです。

 これらの研究者による見解は、それぞれ根拠があり、何が最も良い解釈なのかという問題は難しいけれど、植木先生としては、これらの歌を当時の人々がどう理解したのか、というものに近付きたいという立場であると仰いました。このように、歌を読むというのは難しいけれどその分楽しいものであると締めくくられ、先生からのお話は終わりました。

<おわりに>

 今回のコモンズカフェの参加者は、英文学科や、法学部の学生さんなど、専門外の学生も多かったのですが、参加者一同、先生のお話に頷きながら聞き入っていました。植木先生のご専門とされている『梁塵秘抄』の研究は、先行研究が少なく実証できない部分もあるとのことですが、今回、非常に分かりやすく、丁寧に解説してくださり、参加者一人ひとりに質問の機会をくださいました。

 質疑応答の時間には、「実際に今様はどのような音程で歌われたのか」という質問に応じて、なんと植木先生が直接今様を歌ってくださいました!

 清らかで心も洗われるような歌声をじっと鑑賞し、まるで平安時代にタイムスリップしたかのような気がしました。高校時代に学ぶ『源氏物語』や『枕草子』、『徒然草』のような古典の世界とはまた一層違う世界を垣間見ることができました。

(構成と文章:趙智英[ラーニング・アシスタント])

 次回のコモンズカフェでは、法学部の木下麻奈子先生をお呼びします。次回もお楽しみに。

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