開催日:2015年11月04日
[第14回]同志社大学 グローバル・コミュニケーション学部 ベティーナ・ギルデンハルト「多文化社会における教育-相互理解をどのように促進するか?-」
第14回 コモンズカフェ 開催記録
<はじめに>
11月4日、第14回COMMONS CAFEが開かれました。
今回は同志社大学グローバル・コミュニケーション学部のベティーナ・ギルデンハルト先生をお招きし、「多文化社会における教育―相互理解をどのように促進するか?―」というテーマでお話を伺いました。
ギルデンハルト先生のご専門は日独における多文化社会と近現代文学で、ドイツにおける移民、日本における多文化共生を研究されています。
様々な背景をもつ人々が平和的に共存できる社会をどのように築いていけばよいのか、「教育」にできることは何なのか、という難しいテーマですが、皆で飲み物片手に、なごやかに議論が行われました。この雰囲気の一端をお伝えしましょう。
<共存社会に向けた、マジョリティを巻き込んだ異文化理解教育とは>
現在、ドイツ国民のうち、移民の割合は20%にものぼるのだそうです。その結果、現在のドイツでは多様な背景をもつ人々が暮らしている、多文化社会ともいえる状況にあります。そのような中、ドイツはどのような課題と向き合ってきたのでしょうか。
「多文化社会の理想的な有り様は、どのような社会なのでしょうか」。
ギルデンハルト先生が問いを投げかけます。ドイツでは、長い間、統合政策が行われてこなかった結果、いわゆる「並存社会(Parallelgesellschaft)」ができてしまいました。「並存」している社会は、「人は人」「人それぞれ」という一見ステキな言葉が似合うかもしれません。しかし、「並存」だけでは、多数派社会と、移民のコミュニティとの分断が起こり、相互不信が深まりがちです。また、多数派社会と移民の間では、教育や職業といったさまざまな格差が生まれてきます。
このような事態を乗り越え、共存社会を目指すために、2000年よりドイツでは移民政策を変えていったそうです。その一つが、異文化理解を促すための教育です。そして、それは移民を「ドイツ式」に教育する一方的な政策でなく、マジョリティ(多数派)であるドイツ人も巻き込んだ、新しい教育の試みでした。
この異文化教育では、異文化は肯定的にとらえられ、移民の背景をもつ子どもだけではなく、「すべての子ども」が対象になっています。その一環として、例えば、多言語主義教育が行われています。多言語主義のもとでは(自分が生活する社会の言語である)ドイツ語習得の促進とともに、(移民にとっての)家族の言語の習得も促されるのです。
異文化理解教育はこのような好ましい結果をあげました。また、子どもたちの言語能力向上という副次的な成果もありました。一見うまくいったプログラムのように思えますが、「残された問題もある」とギルデンハルト先生は指摘します。
<異文化理解促進の試み、その問題点>
ギルデンハルト先生の出した例はこんなものでした。「小学校で子どもにそれぞれの家庭の朝ごはんについて教師が話をさせています。しかし、あるトルコ系の子どもは多くのドイツ系の子どもと同様にパンを食べているにもかかわらず、オリーブやヤギのチーズを食べていると嘘をついているのです」というものです。
「これって皆さんはどう思いますか?」
先生の問いかけに対し、学生は思い思いにさまざまに意見を述べていきました。「周りの期待するイメージに合わせてしまうプレッシャーが働いていて問題だ」という意見や、「2世3世と世代を重ねるにつれて、移民としてのアイデンティティは薄まっていくと思う。加えて、いろんな文化が共存する中では、周りの期待に対してどんな受け答えをするか選択できること自体アイデンティティとなっているのでは」といった意見が出されました。
さまざまな意見が飛び交うなか「子どもが嘘をつくというのは、トルコ系の人々のあるべき姿とドイツに暮らす実際の自分の姿とに葛藤があって、自分の姿を否定しつつアイデンティティを形成してしまうのではないか」というアイデンティティ形成の議論がはじまっていきます。これらの議論をふまえて、ギルデンハルト先生が「ここに大きな問題がある」と話し始められました。
「移民の子どもに民族の誇りをもってほしいという教師の思惑が、『あなたは○○人である』という決めつけをはらんでいます」。
このような“差異の承認(違いを認めること)”は一見よいように見えるものの、じつは異文化理解において大きな課題にもつながっており、時として個人のアイデンティティを無視し、属性という型にはめた理解に陥ってしまう可能性があるといいます。
つまり、「みんな違うんだ」と強調するばかりに、逆説的に平等さが失われかねない恐れが“差異の承認”を扱う教育にはあるのです。この矛盾をはらんだ葛藤に対して、私たちはいかに向き合うべきなのでしょうか。
<教育に対する期待の危うさ -共存社会に向けて教育にできること、できないこと>
この点に関し、参加者として学生たちに交わっていただきました文学部のある先生(興味があったので参加したとのことです!)のご意見が印象的でした。なぜなら、哲学的には「承認」を単に違いを認めることだけでなく、お互いが対等であることとも捉えるからだそうです。
ここに、「差異の承認」の逆説的な困難が表れているのではないでしょうか。
おそらく、この場にいた誰もがそう感じていたでしょう。ある学生がこう言いました。
「学校教育では補えないものがあると思う……。相手をいかに認めるかは、個人のもっているものにも左右されてしまう。むしろ、家庭教育の問題ではないだろうか?」。
この意見に対し、「学校教育に期待しすぎてはいけない」と、共存社会実現に向けた、より大きな課題についてギルデンハルト先生は話し始めます。
「いかに平等であると教えても、一歩学校を出ると現実に横たわる格差があります。ドイツ人の父親は、いいクルマに乗っていい生活をしています。一方で移民の父親は、安い賃金で働き詰めの生活をしています。社会の再分配の問題を乗り越えない限り、教育の限界を克服することはできません。教育と社会の再分配の問題を同時に解決しない限り、共存社会を実現できないのではないでしょうか」。
ここで思い起こされるのは、先程の文学部の先生のご意見です。単に違いを認めるのではなく、お互いに対等な関係であることが「承認」である。そのことをふまえると、教育現場で抱えられる葛藤は、私たちの暮らしの中にその根を下ろしているのかもしれません。
今回のコモンズカフェは、すぐには解決できない重いテーマにもかかわらず(であるからこそ?)参加希望者が殺到した大盛況の回になりました(いつも大盛況ですが)。
先生から一方的に教えられるのではなく、お茶を片手に皆で討論しながら学ぶ。書ききれなかった色々なエピソードも沢山ありました。今後もみなさんの参加をお待ちしています。
(文責・LA贄田)