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COMMONS CAFE <コモンズカフェ>

開催日:2019年05月28日 今出川

[第33回コモンズカフェ]歴史資料館准教授 浜中邦弘「お公家さんよもやま話 ―お武家さんのいざこざ(応仁の乱)ではた迷惑―」

第33回コモンズカフェ開催記録

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〈はじめに〉

 第33回コモンズカフェ(2019年5月28日)は同志社大学歴史資料館の浜中邦弘准教授をゲストに、「お公家さんよもやま話――お武家さんのいざこざ(応仁の乱)ではた迷惑」をテーマにお話をしていただきました。

 今回のカフェは、応仁の戦乱の始まりをつげるものとして、浜中先生が連れてきてくださった大学院生の山本尚人さん(文学研究科)による法螺貝の実演からスタートしました。ラーニング・コモンズ内で法螺貝が吹かれるのは史上初(!?)の試みでした。

〈①応仁の乱と朝廷の失墜〉

 応仁の乱(1467-1478)によって京都は焼け野原になってしまいました。戦乱の影響を受け、庶民は家や財産を失い、朝廷の力も衰えました。浜中先生によると、「お武家さんは戦争でものごとを解決するが、お公家さんたちは刀をもったりしての武力での解決策をとらない。血はケガレとなるのでやらない。交渉などで平和的にやっていくのが両者の違い。応仁の乱は武士による武力衝突で京都はえらいめにあった」といいます。

IMG_0154m 考古学の資料として、相国寺(1392-)の瓦を見せていただきました。瓦は、同志社大学の志高館を建てる際の発掘調査で出てきたもので、もともと黒かったものが火にあたって赤く焼けていました。持ってこられた瓦は屋根の軒先を飾る軒瓦ということです。赤の色はこれらの瓦が葺かれていた建物が応仁の乱のときに、燃えてなくなった証拠だということです。

 参加者からは「京都は鴨川など川が多いイメージがありますが、当時、火消しなどは機能しなかったんですか」、「町が燃えてから、また人々が戻ってくるのにはどれくらいの期間がかかりましたか」などの質問がありました。浜中先生からは、「基本的に火災になった際には逃げるしかないですね。相国寺でも逃げていますし他のお寺もそうだと思います。火災の際に仏像とか貴重な宝物は持ち出したりすることが多いですが応仁の乱の際にはそうした時間もあまりなかったようです。京都全体が燃えているイメージがありますが下京は意外と燃えていないんですね。上京はほぼ全体が燃えているのですが早くに復興しています。1500年代前半にはかなり復興が進んでいます。その頃に上京では法華宗のお寺が多くできています。法華宗の関係者が中心になって復興が進んだのかなと。

 この戦乱によって朝廷と幕府は全然だめになりましたけど、民衆たちによる京都のまちづくりが主体的になされていったではないかと思います。余談ですが江戸に町火消しなどの組織があるんですが、京都にはありませんでした。4つの藩、膳所藩、高槻藩、大和郡山藩、淀藩が京都の火消し役を担当し、町衆でも持ち回り制で交代で火消し担当し、道具が渡されて火が出た時はその時の担当が対応するようになっていました。そうした状態だから江戸と違って本格的な町火消体制ではないので火が消せるわけがない。所司代(町の取り締まりを職務とした役人)に怒られる史料がありますが、できるわけがないですね。家財道具をもって逃げる。京都は火の手があがったらなかなか止められなかったのです」と話されていました。

〈②大嘗祭と即位の儀式〉

 天皇が即位した際に行われる大嘗祭も、応仁の乱以降できなくなりました。浜中先生によると、朝廷の所領がどんどん奪われて費用を捻出できなくなり、東山天皇(1675-1710)の代の1687年でようやく復活したそうです。大嘗祭は重要な儀式で、これができなかった天皇は「半帝」と呼ばれたそうです。

 浜中先生からは、大嘗祭や即位の儀式(近世は即位式、近代は即位礼という)について、代々受け継がれてきた点と、時代によって変化してきた点についてお話がありました。大嘗祭で「悠紀殿」(ゆきでん)と「主基殿」(すきでん)に奉納するための米を育てる地方の選出方法を、ウミガメの甲羅を焼く占いで決めることが現代でも続いています。今年は京都府と栃木県が選ばれています。今年も11月にこの悠紀殿と主基殿が、天皇が神との交流を行なう場になるということです。「今回、大嘗祭全体も規模が小さくなりますが、開催されること自体、伝統の儀式がつながったということで喜ばしいことではないかなと思います」と浜中先生はおっしゃられました。

IMG_0146m  即位礼と即位式も大きく変わっているということで、一番大きく変わったのは、皇后が公の場で儀式に参加することでしょう。もともと即位式の時は、高御座(たかみくら・天皇の玉座)のみがあり、天皇だけが儀式に出ていましたが、近代になってから欧米列強の文化が入ってくる中で男女平等にふるまう必要性などから、新皇后が上がる御張台(みちょうだい)が高御座の隣に置かれるようになったということです。浜中先生によると「現在の皇后の装束はかなり軽量化されてはいるものの、17キロくらいの重さがあると聞いておりそれでも重い。足を蹴りあげるような方法でないと歩けない」といいます。皇后だけではなく天皇の衣装も変わっています。天皇のみが着用することのできる「黄櫨染御袍」(こうろぜんのごほう)は近代では即位礼に用いられていますが、江戸時代以前は冕服(べんぷく)という中国式の衣装でした。孝明天皇(1831-1867、明治天皇の父)の代まで冕服が用いられ、孝明天皇の装束は今も残っています。

 即位式では、即位灌頂(そくいかんじょう)という密教の儀式が江戸時代まで行われていました。二条家(浜中先生が大好きなお公家さん)が高御座の中に入り、天皇に秘儀を伝授したそうです。その儀式で伝授することによって、天皇は仏法の頂点に君臨することになるのだといいます。即位灌頂は明治以降は廃止されます。もともと即位灌頂の儀礼の詳細は口伝によって伝えられているということでしたが、途絶える危機があり、その後文書として記録され二条家に伝えられることとなりました。その重要な文書は現存しており、なんと現在、同志社大学の歴史資料館に所蔵されているということです。

IMG_0169m〈③後奈良天皇〉

 浜中先生のコレクションから、後奈良天皇(1496-1557)直筆の歌を書いた掛け軸を披露していただきました。なぜ後奈良天皇を浜中先生が取り上げられたかといいますと、2017年2月21日に行われた皇太子さま(当時)の誕生日の記者会見で、後奈良天皇に言及したことによります。後奈良天皇は、朝廷の当時の窮乏した状況の中で朝廷を存続させるため、また戦災や疫病などに苦しむ人々を助けるために、自ら般若心経を写したものを寺社に奉納したり、書いたものを売ったりしたそうです。これをうけて皇太子さまは記者会見で「国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、共に悲しむ、ということを続けていきたい」(注)と述べられました。この後奈良天皇の書かれた和歌は多く残されており、浜中先生はその中の一つに出会ったそうです。出会いに感動し手元に置きたくすぐに購入したということです。

 浜中先生には掛け軸の解説をいただきました。「心ある里の知る可く類夜に、ほ多留飛び可う前の多な橋」とあり、和紙の上部に小さな穴が開いていることから、路頭で売られていたものではなく、歌会で歌ったものだといいます。歌会で用いた和歌の短冊はキリで穴を開けて紐で通し全体をまとめるからだということでした。

〈おわりに〉

 今回のカフェでは、先生のご厚意で、後奈良天皇の掛け軸や相国寺の瓦に法螺貝の実演など、多くの実在する資料に直接触れられる機会となりました。参加者の皆さんとともに、歴史へのロマンに思いをはせる1時間となりました。浜中先生、ありがとうございました。

 

宮内庁HP「皇太子殿下お誕生日に際し(平成29年) 皇太子殿下の記者会見」より

http://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/9

 

(文責:学習支援・教育開発センター 矢内真理子)

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