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COMMONS CAFE

Date:2017.06.29

[第25回]同志社大学 文学部教授 岡林洋「さまよえる五重塔-「国家護持」VS「アート」」

第25回コモンズカフェ開催記録

<はじめに>

文学部岡林先生03 今回のコモンズカフェでは文学部の岡林洋先生をお招きしました。先生は現代美学・現代アート論について研究されています。本日は、川俣正さん(造形作家・現代アーティスト)の作品、「足場の塔」を手がかりに美学的なアプローチか   ら作品をどのように読み込んでいくのかというお話をいただきました。なお、川俣正さんは同志社大学エコ・エステティック&サイエンス国際研究センターのホームページ(https://eco-aesthetics-doshisha.jimdo.com/)でも記事を連載されています。

<川俣正と「足場の塔」>

 奈良の大安寺には遺跡調査により東西両塔があったことが分かっています。その近くに塔のような造形作品があります。「東アジア文化都市2016奈良市」のメインイベント、「古都祝(ことほぐ)奈良――時空を超えたアートの祭典」(http://culturecity-nara.com/kotohogunara/)の目玉でした。それが川俣正さんの作品である「足場の塔」(http://culturecity-nara.com/event_info/daianji-kawamata-process/)です。

 これは民間の鳶職の方々が作成したもので大きな木の骨組みで組み上げられています。その中には五重塔が浮かんでいるように見えます。つまり鳶職の方々が作った足場のなかにアーティストである川俣正が手を加え、徐々に塔を出現させていったものだそうです。着目すべきはこの「むき出しの骨組みの中にある塔」の「未完成」の状態が完成形であることです。

 かつて、大安寺には七重塔がありました。それを川俣さんが自分なりに解釈し、新しい塔を建てるということを考えたのだそうです。このアート作品はどのような意味が読み込めるのか美学の視点から解釈をいただきました。

文学部岡林先生ドローン ただし、どのような塔なのか理解できないと、我々もよくわかりません。そこで先生から実際にドローンで足場の塔を空撮した映像を見せて頂きました。七重塔の跡地と実際の「足場の塔」が一目で分かります。地上から徐々に離れてゆく映像は、現場の臨場感を視聴者に感じさせるには十分でした。広大な土地にそびえる塔はどこか異形の姿をしています。

  「川俣先生は変換装置みたいなものを持っていると思う」、「変換装置。それがアートだと思う」、「それを捉えるために、美学から考えていきたい」と先生は仰います。

<国家護持のための塔と「脱構築」>

 時は天平時代の741年、聖武天皇は国家護持を目的として諸国に国分寺と七重塔の建設を詔として出しました。塔の内部にはインドで4世紀頃に書かれた仏典が収められておりまさにそれが国家護国への道を体現していました。例えば、東大寺もその国家護持の目的の一つとして建てられたものです。

 岡林先生はこの七重塔をモンスターととらえ、アーティスト川俣正がこれを「脱構築」する試みを行っていたのではないかと予想します。この「脱構築」はフランスのジャック・デリダの理論です。この概念には「解体」と「再生」という側面を含みます。先生によれば川俣正は遠い昔の「国家護持」を一つの存在意義としていた七重塔を「解体」し、目的と切り離すことであらたなアート(美)として「再生」させたという解釈ができるそうです。それはまさに「猛威を振るう自然の力と戦争に明け暮れた地でもある古都奈良の歴史の真只中で廃墟となった五重塔」を「現代アートの現場にしたような誤解感」を我々に与えてくれるといいます。

 また当該の川俣作品については「宿り木作品」であるといえます。ここでいう「宿り木」が意味するものは本体に迷惑をかけないということだそうです。足場の塔は建築専門の企業の建造物ですが、それに対して川俣はプラスアルファとして「絶妙に」五重塔を入れこみました。この点は岡林先生による独自の川俣の作品の解釈と考えられます。

<アートとしての五重塔と三重塔>

 「国家護持」を目的とした、見た目はモンスター(不格好)な七重塔に対し、リズミカルさと美しさを併せ持つ五重塔と三重塔というのがあります。こちらは国家のためという外的な目的を持たず、それよりもむしろ、その美しさを内的な、自己充足的な目的として持っているといいます。ちなみに、かつてのフェノロサも三重塔である薬師寺東塔(奈良市)を「凍れる音楽」と絶賛したことは有名な話だといいます。

 文学部岡林先生01 「誤解」をも含めてアート作品を読み込んでいくことが岡林先生のご研究される美学のスタイルであると言います。実際に岡林先生の解釈を川俣さんにお話したときに「それは岡林さん独自の解釈だな!」と面白く捉えて頂いたのだそうです。

  美学をやっている人間は実際に作り上げるアーティストの作品に匹敵するほどの解釈をすることはなかなか出来ない。しかし、アーティストの作品に対して解釈する側が自由に解釈していき、それをアーティストに伝える。それをアーティストも楽しみにしてくれているんです、と岡林先生から前半のお話をまとめていただきました。

<質疑応答から>

 ここからは質疑応答の一部を紹介します。

1. 川俣正による当該作品は現代社会への風刺を含むか?

本人はあくまで、社会に対してはニュートラルでありたいと思っていると推測される。ただ、彼の作品の中には社会の時事的な事件や事象を扱ったものも存在する。

2. 美術作品を見るときの視点は?どういった風に作品を見ればよいのかヒントはあるか?

“fine art”というものがある。これは見ている人の気持ちをうっとりさせたり、気持ちを良くさせたりするような美術作品だ。しかし、artであるかartでないかは大きな問題ではない。自然にできたもの、造形にも美しさはある。美学はこだわらない学問なのだ。

3. 美学の道に進んだ理由は?

自身は元来画家を目指していた。ヨーロッパでのある作品との出会いから、自分の美学観が変わった。また、川俣さんとの出会いも人生のターニングポイントである。

<おわりに>

  他にもいくつかの質疑応答はありましたが、これは参加者だけの特権にしておきましょう。

文学部岡林先生02  「美学」という耳にはするものの実態が部外者にはなかなか知られにくい学問領域をご専門とする先生から、実際のアート作品を例に取りこのように読み込んでいけるのだ、と分かりやすくご説明いただくひとときでした。作品は作品だけで独立単体で成立するのではなく、「読者」が居るからこそ成立するのかなと自問自答するきっかけをいただける貴重なお時間になりました。

 次回のコモンズカフェは秋学期からの再開となります。皆さん、お楽しみに。

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